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管理人のブログ <セブ島の雑記>

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●のんびりとした感じのセブ島ですが、フィリピン最古の都として複雑な歴史を経てきています。フィリピンという国を通して見えてくるセブ島の素顔や日本との関わりなどを知ることで、旅行がまた少し違ったものになります。

一度訪れてしまえばそれきりになってしまうリゾート地ですが、興味のある方はぜひこのページをご覧になってください。
もっともっとセブ島が身近に感じられると思います。

---フィリピンの歴史---
人民の移動

 フィリピン人はいくつかの人種から構成される。主な人種はマレー系ですが、インドネシアや中国系も交じっています。発掘されている最古の人骨は約5万年前と考えられていますが、今から2万5千年前に、まだ陸続きだったアジア大陸から渡ってきたのが先住民族であるというのが定説です。

 マレー人が渡来してから植物の栽培、建築、青銅器を使った水田耕作などが発達したと考えられています。このころから、中国やインドなどのアジアの国々との交易も盛んになりました。アジア各地の文化はフィリピンで出会い、独自の文化を作り上げてゆくが、このように各地から文化、人民が移動してきたことにより、各島により数多い独自の言語が用いられるようにもなってしまいます。
そのころの日本は。

縄文時代、氷河期の終わりごろになる。土器や古墳が作れらるようになり、大陸から渡来してくる移民が多くなる。

イスラムの伝導

 15世紀になるとマレー半島からもちこまれたイスラム教がフィリピン全土に広がりました。マレー半島より渡来したシャリフ・モハメッド・カブンスワンの手で伝道所が設立され、イスラム教はたちまちフィリピン全土に広がり、彼はミンダナオ島の初代国王となったのです。以来ミンダナオ島は現在までイスラム教が根強く残る島です。

 このころのフィリピンは半自治体、半奴隷社会を形成していましたが、それぞれが「バランガイ」と呼ばれる小さな生活共同体を営み、独自に統治していました。
そのころの日本は。

足利尊氏が室町幕府を開く(1338年)。
応仁の乱(1467年)。
貨幣が流通し始める。
フィリピンとの交易もあった。

スペインの統治

 1521年にポルトガルの航海者マゼランがセブ島に上陸し、マクタン島をスペイン領と宣言。スペイン軍は次々に遠征隊を送り込み、次々と各都市を占領。1565年にはレガスピがボホール島に上陸、1571年にはマニラも占領し、レガスピは初代総督に就任しました。

 マゼランはマクタン島の酋長、ラプラプとの戦いで死亡するが、島々が離れ、バランガイ同士を統合する行政もなかったためにスペインの侵略に対して団結して防ぐ事ができず、容易に占領を許してしまいます。このころにはイスラム教はフィリピン全土に浸透していましたが、スペインはイスラム教を一掃し代わってキリスト教を布教する事に成功します。しかしミンダナオ島のみはイスラム教の信仰が強く、改宗させることはできませんでした。今もフィリピン各地に残る石作りの教会に当時の名残を見ることができます。

 これより3世紀もの間、フィリピンはスペインの植民地として発展します。 この時スペインの領地化を狙って命名した「FILIPINAS(フィリピナス)」と言う名前が今日のフィリピンの語源となっています。
そのころの日本は。

戦国時代となり、織田信長が台頭する。
桶狭間の戦い(1560年)。
豊臣秀吉が天下を統一する。
関が原の戦い(1600年)。
徳川家康が江戸に徳川幕府を開く。(1603年)
マゼラン 侵略するスペイン人と戦った英雄
ラプラプ。セブ島にある記念像。

フィリピン革命

 長く続いたスペインによる圧政に対し、17世紀の中頃にはスペインに反発する勢力が各地で反乱を起こすようになります。スペインは本国の内乱、経済の悪化などもあり、統治力を徐々に失っていきました。
フィリピンの英雄であり「解放運動の父」と呼ばれたホセ・リサールが著書や詩をもって独立の思想を人々に広めますが、これに危機を感じたスペイン当局はリサールを銃殺してしまいます。

 この処刑に対して民衆は怒りを爆発させました。アンドレス・ボニファシオがリーダーとなりフィリピン各地で武力闘争が広がり、フィリピン革命を引き起こします。この当時スペインと交戦状態にあったアメリカとフィリピンの民衆は手を結び、1898年6月12日に、ボニファシオに代わって革命のリーダーとなったエミリオ・アギナルドによってフィリピンは独立を宣言します。アギナルドは初代大統領に就任し、フィリピンは独立に向けて勝利したかのように見えました。
そのころの日本は。

江戸時代、日本独自の文化が花開き、1639年には鎖国が完成する。鎖国政策により、フィリピンとの交易は絶たれるようになる。
アンドレス・ボニファシオ ホセ・リサール
マニラには記念公園もある。

アメリカの介入

 スペインが各地の反乱に敗れそうになった時介入してきたのがアメリカでした。スペインはフィリピンに住むスペイン人の財産を保障することを条件にメキシコ、グアム、フィリピンの統治権を1セットでアメリカに2000万ドルで売却してしてしまいます。この売却は1898年の12月10日にパリ平和条約で批准されています。アメリカはフィリピン革命時にアギナルドを支援してきましたが、アギナルドはこのアメリカとスペインとの裏取引きを知らなかったのです。

 6ヶ月前に独立を宣言し、大統領となったばかりのアギナルドもアメリカは大統領とは認めず、今度はアメリカに対しての反発が強まっていきます。フィリピンの民衆はアメリカと対立しますがアメリカの近代兵器には敵わず、アギナルドは降伏、ミンダナオ島をも支配下に置かれます。こうしてアメリカはフィリピンの新しい統治国となりました。アメリカの統治はこの後40年続きます。
そのころの日本は。

1867年に徳川慶喜は大政を朝廷に奉還し、フィリピンにおけるスペイン統治とほぼ同じ300年続いた江戸幕府は滅亡する。
明治維新(1868年)。

アメリカの統治

 アメリカはフィリピンに教育システムを持ち込み、大規模な学校制度を確立。英語を共通語として適用させ、フィリピン人をアメリカの国益に沿うように教育しました。英語は現在も公用語としてフィリピンで用いられ、また教育システムも全てアメリカ流です。しかし1929年になると世界恐慌が起こり、フィリピンはアメリカのお荷物になります。

 アメリカの政策に不満を持つフィリピンの民衆を持て余したアメリカ政府は1934年に10年後のフィリピンの独立を認め、独立準備政府が樹立されます。1935年にマニュエル・ケソンが大統領に就任しましたが、実際はアメリカの傀儡のままでした。
そのころの日本は。

日露戦争(1904年)。
大正から昭和へと時代が移り変わる。
近代文化が発達する。
関東大震災(1923年)。

日本軍の進撃

 約束の10年が過ぎる前にフィリピンは次の侵略を受ける事になります。1941年に日本軍は太平洋一帯に攻撃を開始、12月26日に独立準備政府はマニラを日本軍にあけ渡してしまいます。フィリピン人はゲリラとして激しく戦いましたが、この戦いで100万人ものフィリピン人が命を失ってしまいます。

 日本軍はフィリピンに駐屯し、日本語の教育などを強制しますが、1944年になると戦局の変化と共に日本軍の統率力も落ち、翌年にはアメリカ軍が日本軍を追放します。その占領は2年程と短かったために、日本式の教育や日本語は普及しませんでした。

マルコスの独裁

 1945年に日本軍が降伏するとアメリカはフィリピンを奪還します。アメリカ軍のマッカーサーはフィリピンの独立を宣言し、1946年7月4日に正式にフィリピン共和国として独立しますが、経済的には貧困を極め、実際は戻ってきたアメリカによる半植民地は続いたままでした。

 アメリカが主導するフィリピンは自由党と国民党の2党により政治が動いていましたが、1965年に自由党のマルコスが大統領になるとマルコス独裁政権へと移ってゆきます。この政権は21年ものあいだ続きマルコス王朝とも呼ばれるようになります。経済的には成功した面もありましたが、テロやゲリラなどが日常化したため、並行するように政府は独裁を強めていきました。国内外ともにマルコスの政策を非難する声が高まってきます。

 1972年にはマルコスは戒厳令を敷き、憲法と議会を廃止し、マスコミも統制管理されます。対立する人間は次々と逮捕されるようになりました。
マルコスとイメルダ夫人

新しいフィリピンへ

 マルコス政権への反発が強まる中で1986年、マルコスの政敵であったベニグノ・アキノが暗殺されます。アメリカから帰国したベニグノ・アキノは空港で射殺されました。この映像は衛星を通じて世界中に放送されます。都合の良いマスコミ操作を行ってきたマルコスですが、衛星技術の進歩により統制が及ばなくなった事件として人々に記憶されるようになります。

 マルコスはこの事件の裁判で被告全員を無罪とし、自身の進退をかけた選挙を実施し再選されますが、不正投票が明るみにでることになります。アメリカもマルコスを見限り、これを契機に人民は立ち上がり革命をおこしました。世に言うピープルパワーによるエドサ革命です。1986年2月25日に人民は集結し、マルコスを海外へと追放します。

 同日すぐに臨時政府が設立され、故ベニグノ・アキノの未亡人であるコラソン・アキノが大統領に就任します。アキノは言論の自由や市民の権利を復活させ、人民のための政策を推し進めることになります。
コラソン・アキノ 暗殺されたベニグノ・アキノ
現在の500ペソの肖像画でもある。

再び革命へ

 独立国家として歩みはじめたフィリピンだったが、おとずれた平和のために政府内には腐敗や汚職がはびこるようになります。国民的アクションスターとして貧困層の支持を受け、民間から選出された大統領エストラダも不正蓄財が明るみに出て、再び決起した民衆により大統領を追われることになります。記憶に新しいエドサ2です。当時副大統領であったグロリア・マカパガルアロヨが大統領に就任し、経済政策を推し進めることになります。

 現在のフィリピンはアロヨ大統領の2期目としていまだ経済的発展途上にあります。
ジョセフ・エストラダ 現大統領、グロリア・アロヨ

セブの歴史

 セブの歴史は古く、フィリピン最古の都として有名です。

スペインの統治以前のセブは スグブ(sugbu)と呼ばれていました。セブが歴史に姿を現したのは、1521年に世界一周航海に出た、スペインの提督マゼランがマクタン島に上陸したのが最初です。当時の支配者フマボンはマゼランを喜んで受け入れ、女王と共にキリスト教に改宗しました。このときの様子は観光スポットであるマゼランクロスの天井壁画に今でも描かれています。マゼランはフィリピンにキリスト教を持ち込んだ人間として有名ですが、そのマゼランを殺害した地元の酋長ラプラプも侵略者と勇敢に戦った英雄とされ祭られています。この戦った2人の記念碑が並んで立てられているのはなにか不思議な感じですね。

セブは早くからスペインの影響を受けたために、文化、建築、史跡など多くの面でスペインの影響を受けており、今でも町並みにその面影を残していますが、アメリカ統治下でインフラが整えられ、フィリピンの貿易の中心地として発展しました。

現在はフィリピン第2の都市としてビサヤ地方の中心地であると共に、先進国の工場を多数誘致し産業として発展させています。また世界有数のビーチリゾートとして日本をはじめ各国から多くの旅行者が訪れています。

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